二人の作家(第三稿)

行きつけの歯科医が、よく私の愛読の作家を訊く。内田百間安部公房と答えて以来、本を持ってくるたびに質問される。

安部公房は難しいとは思えない。彼の文章は分りやすく、親しみが持てる。インテリぶっていない。どこかにこどものような無邪気さを持っている。「壁」は漫画的だ。舞台劇にしても面白いだろう。気さくな文章で読むのが楽しい。いちばん好きなのは「箱男」。これほど謎解きの面白さを感ずる小説もない。最後ははぐらかされてしまうが、その方がすべて明らかになってしまうより面白い。

わからないことの面白さ。謎とは開かずの間のようなものだ。中が解らないから想像力をかきたてられる。イマジネーションに際限がないのである。何が真相か、誰にも解らない。解らないから面白い。ミステリーとはもともとそういうものだ。解き明かされるミステリーなど、神秘でも謎でも何でもないと思うが、如何なものだろう。

内田百間。あんなに面白い世界があるだろうか。言葉の神秘である。文章が練りつくされており、一語一語、噛んで味わうように読む。百間は短篇作家である。彼は一文たりとも疎かにしない、真の文章家ではないだろうか。しかつめらしい態度でとてつもない冗談を言う、そんな筆致でも知られ、随筆家としても一流。だが私はむしろ怪奇文学の大家としての彼を推す。読むたびに味わえる底無し沼のような恐怖。百間は小説を書き出すずっと以前から俳句に親しんでいる。それゆえ彼の文章には俳句に通ずる世界観がある。俳句を学ぶことによって培われた情景描写の手法は、多角的で奥行きが深い。そこには通奏低音のような悲劇性が感じられたり、ユーモアの芽が隠れていたりする。どこか狂ったスイス時計を思わせるところもある。精巧にできているが、正確な時を刻んでいないのである。